ゲド戦記おもしろかったよ?

(注 これは3週間くらい前にミクシィ日記に書いたものをまとめたものです。
ゲド戦記は自分としては結構面白かったのですが、あまりに酷評ばかりが目立つので例によって擁護することにしました。
本当は前にも書いたように、ナルト劇場第三作、ブレイブストーリー時をかける少女を加えて劇場アニメについて書こうかなどと思っていたのですが。
…しかしここは不人気アニメの擁護ブログなのか?まあ相当な天邪鬼なことは確かですね。

3つに分かれていたものを適当につなぎ合わせたのでちょっとおかしいところがあるかも知れませんがお許しを。)



ゲド戦記おもしろかったよ?

いや、変なレトリックとかじゃなく、本当に。

もちろんつたない部分はたくさんあったし、楽しめなかったり、文句を言いたくなる人が多いのもわかる。

楽しめない人が多いのは、この作品が提供する一番の面白さが、散歩や登山、作中にも出てきた家事や農作業のようなものがもつ面白さであり、娯楽アニメに期待される面白さとは大分ずれているからだと思う。僕が言うのもなんだが、アニメファンの人にはつらいかもしれない。

個人的にはNHKの小さな旅や、映像詩里山を楽しむようにして楽しむことができた。話の上ではなんでもない部分が一番気持ち良かったというか。移動シーンがその筆頭だけど、他には食事シーンとか。
監督は大学で森林を学んだ人なので、僕と好みが近かったんじゃないかと思う。

逆にクモ一味に関しては、アンチテーゼをわかりやすく代表させて映画をまとめるための安全策としてああいうのを出そうという考えが出てくるのは(誰の考えかは別にして)わかるけど、やり方が監督の嗜好とずれているように感じて逆効果だったのではないかと言う気がする。

いっそ、クモ一味は全く出さずに農作業と旅と食事を繰り返して、テルーと仲良くなりつつ収穫を迎えるまでを描いてくれたほうが良かったのではないかとすら思う。

一層好みが分かれる結果にはなっただろうが。

例え話で言うと、宮崎駿って口では玄米が良いんだと言いながら、実は甘くて柔らかい白米の方が好き、というタイプだと僕は思うんだけど、吾朗監督は素で玄米の味の方が好きなタイプだと思うんですよ。

大雑把な言い方を続けると、駿作品って、義務感などから表面上は玄妙なテーマを扱いつつも本音の部分はアクションと異性の描写にあったからこそ大衆的な人気があったと思うんだけど、吾朗監督は玄妙なものを本心から好んでいる、と言うか。そこがゲド戦記には合っていたわけだけど。

ちなみにこの例え話で言うと、高畑監督も宮崎駿と同じく実は白米の方が好きなのに政治的な信条から玄米を食べるべきだ、と言っているタイプなんだけど、駿が影でこっそり白米を食べまくっている一方で高畑監督は玄米食を貫いている、と言う感じ。妄想ですが。

そういう意味で、表面的には高畑監督の作風に似ているんだけど(まあ洗練度は段違いだが)、高畑監督の日常描写にある修行のような感じがない。
自分からごく自然にやっていると言うか、むしろ楽しそう。ゲドが食べ終わった椀をいい加減に洗うところとか。

あと象徴的だと思ったのが、パンに紫たまねぎのスライスを乗せるところ。駿監督だったらあそこで子供に嫌われやすい食べ物は出さなかっただろうし、出すなら出すでその必然性とリアクションを入れると思うんだけど、吾朗監督は普通に美味しいと思っていそう。

押井監督との対談で不健康さが足りないとか、フェティッシュをもっと出した方が良いと言われていたけど、押井監督が不健康すぎて吾朗監督の好みが理解できなかっただけなのではないかと思う。

高畑・駿作品の美術、特に自然描写には個人的に不満があったんだけど、今回は監督が専門家なだけあって不満が少なかった。必要に迫られて調べたのではなく、山や草原や建築のことが好きな人がやった感じが出ていた気がした。もののけ姫の森描写にすら不満があったのに。
ついでなので詳述すると、もののけ姫の最大の不満点は大木ばかりが目立ちすぎることなんだけど、それは作品テーマには丁度良かったので、良いとも言える。
屋久島に行った時にもののけ姫のロケハンが行われたところと言うのがあって、車で行って簡単に見れるところだったので、どうも良くない印象を持っていると言うのもあるんだけど。


作画面では、スケジュールが短い分詰めが甘いところがあったりボリュームが減ったりしたような気はした。特に町のモブはジブリにしてはかなり省力化された表現になっていたと思う。前述のように監督の作風だと思うけどアクションも少なかった。でも、アクションの出来は演出も含めて思ったより良かった。
冒頭の竜の質感はどうやったんだろう。ハウルの城描写の時のようなやり方ではあれだけの動きはつけられない気がするんだけど。終盤の竜は質感が付いてなくて残念だった。キャラクター性があるから作画の質感で統一すると言う意図があったのかもしれないけど。
クモの最後が橋本晋治だと思うけど、すごかった。ジブリ長編作品史上最も原画の個性が出たシーンではないだろうか。でも、それ以外は特筆するほどのことは無かったかな。大塚伸治の担当部分の説明がプログラムに載っているけど、ハウルの時ほどの活躍ではなかった。
葦原で葦が全部動くカットがあったけど、CGかな。
(正確には葦とは別種だったけど。)

初監督でいきなりゲドは良くないとか、駿版が見たかったとかの意見も見かけるけど、僕の印象としては、監督本人も言ったとおり、ゲド戦記だからこれでなんとか行けたのであって、他の作品だったら無理だったと思うし、駿監督だとゲド戦記らしくならなかったと思う。まあ原作者が見て何と言うかはわからないけど。

(追記
やはり原作者も不快感を表明したようですね。まあ引き金は監督ブログでの発言だったようですが。ゲド戦記には駿より吾朗監督のほうが向いてると思うんだけどなあ。)


結局、禁欲的な原作と監督の嗜好が一致して、禁欲的であること自体が逆に面白さを生むと言う珍しい現象が起きていたのではないかと思う。そういう意味ではある種のマゾ映画で、見る人に少しでもマゾっ気があれば見ている間だけはマゾになれるような気がする。

宮崎・高畑作品では、生活描写を面白く見せるために色々な工夫をしていたわけだけど、なぜそんな努力が必要かといえば、自分自身の好みに鑑みて、ただ生活描写を見せても面白くならないと思っていたからだと思うんですよ。だから、宮崎駿で言えばハイハーバーの描写が理念的には正しいのにいまいち面白くならなかったし、食事シーンで言えばチーズや目玉焼きのような普通に美味しいものを食べる場面を出すか、ナウシカのように逆に「マズイ」という面白さを出すかでないと面白くならなかったわけだけど、これが吾朗監督だと非常に微妙なものを美味しいともまずいとも言わずに食べることが何故か無性に楽しい。

「原作と比べてスケールが小さい」みたいな不満も見かけるけど、思うにこれは監督が原作よりさらにゲド戦記らしさを強調した、いわば「濃縮ゲド戦記」を目指した結果なのではないかと思う。つまり、スケールを大きくすることで娯楽として普通に気持ちよくなってしまうのを避けたと言うこと。

宮崎駿がやっていたら外面はともかく本音の部分が真逆なので、ゲド戦記のフリをした宮崎アニメにしかならなかっただろうし、高畑監督がもしやれば外側も内側もかなり端整なものができただろうけど、それでも吾朗監督ほどのマッチングではなかったのではないかと思うし、ゲド戦記とは言えそもそも海外のファンタジーは引き受けないだろうとも思う。そういう意味で吾朗監督の起用は色々問題はありつつもゲド戦記をアニメ化する上では最上の選択だったのではないかと思えるし、結果的に成功と言っていいのではないかと思う。

普通の娯楽を期待すると全く逆なので、注意が必要だけど。
せめて玄人の人には是非この面白さを味わって欲しいなと思った。




読み返してみると我ながら殆ど妄想だなあ。

まあ、期待しないで見ると良いですよ。最初に書いたように失敗や至らない部分も多々あるのでそれでも楽しめる人、具体的には映像や話の流れが見難かったり、語り口がぎこちなかったり、張りぼての裏側が多少見えているくらいでは文句を言わない人でないとあまり楽しめないだろうと言う気もするし。
これじゃあその時点で殆どの人はダメな気もしますね。まあ、ほめすぎた気がしてきたぞ、というだけです。



最後にプログラムの鈴木敏夫紅の豚の台詞を引き合いにした文章に対するネタ。
つまり、吾朗監督が美少女だったら何も問題なかったのに、と言うことですか。


(追記
日テレの満員御礼特番を見ました。旅をテーマにしたやつ。youtubeに上がってますが、小学生の旅の部分がカットされているのが残念。そっちの方がゲドっぽかったと思うんだけど。
吾朗監督はやはり登山をやっていたのですね。信州大学で森林を研究してたというところまでは知っていましたが。どうりでわかってるわけだ。食器の雑な洗い方で、これを作った人は登山をやっているに違いないと思っていました。納得。)



あ、「時をかける少女」は非常に良かったのですが僕が新たに言いたいことはあまり無いので、まだの人は是非劇場で見てください、と言うだけにします。
ナルトの第三作も都留監督の劇場監督デビューですし、例によってアクション等の作画がたっぷり楽しめる作品になっていたので、是非。

そしてブレイブストーリー戦闘妖精雪風などのCG監督白井氏のセミナーがあります。
http://www.comsup.jp/anime/semiinfo.html
9月1日飯田橋にて。