コメントへの返事と作画の個性論争

前の日記にいただいたコメントに返事を書いていたら長くなってしまったので途中で別エントリにすることにしました。文章におかしいところがあったらごめんなさい。

N・H・Kにようこそ!」の4話はリアルにしている部分と感覚的な誇張をしている部分の振れ幅が大きいんですよね。oyadge01さんのご指摘の部分には確かに普通はやらないようなリアルな表現をしているカットがありました。メイド喫茶に入る直前、入り口をまたぐ主人公の尻のあたりを捉えたカットですね。それと前の日記にも書きいたことですが、主人公が寝ているカットのリアルさは相当なものでしたし、冒頭でPCの前に座って悩む主人公もなかなかのものでした。
個人的には作画の振れ幅が大きいと言うことは非常に良いことだと思います。言ってみれば、カットごとに(キャラクターの造形を含めた)絵を変えられると言うことはアニメの特権なわけで、そこを弱点としか感じられないのは不幸だし、あまり良い結果につながらないと思います。人間は同じ顔ですが、アニメキャラは顔が変えられるんだ、と言うポジティブシンキングです。
絵の変化とそのコントロールこそがアニメ作りの要点ですから、もちろん変えれば良いというものではありませんが、逆に全て設定どおりにすることが正解と言うわけでもないと思うのです。全て同じ絵にするのではなく、絵の変化をコントロールするべきだ、と言うことです。この「コントロール下にあるかどうか」の意味で「演出意図かどうか」と言う言葉が作画の個性論争では良く使われているわけです。
劇場アニメでは担当原画マンの個性に合ったカットを割り振ることは当たり前ですが、それ自体原画マンの描く絵が違うことが前提になっているわけで、作画監督も全てを設定どおりに直すわけでもない。今回のようにTVで意欲的な作画をするとコントロールが荒くなってしまうことはあるわけですが、それでも僕の見たところ多少なりともアニメに通じた人に対してであれば意図したものを伝えられる域には達していたと思うのです。
もちろん、基本的には視聴者はアニメキャラの演じるドラマへの感情移入を期待していて、振れ幅の大きい作画は余程上手くコントロールしないと人為を感じさせる結果となって(実写で言うクサい芝居に近い)興がそがれると言うのはわかるんですが、それが演出家の高度なコントロールの元に上手くかみ合った時には、設定どおりの絵による記号的な表現の組み合わせでは不可能な域の感動を伝えることができると思うのです。それこそが多くの劇場アニメが目指しているところだと思うのですが。
別の言い方をすると、要するに同じ絵を使うことで記号性は増し、それぞれの絵の意味を共有しやすくなり、誰もが理解しやすくなるわけですが、記号的な表現のできることには限界があるわけです。例えば複雑な感情や強い感情などを伝えられないというような。そういう意味で、2chの高速かつ記号的なコミュニケーションには記号性が高いアニメのほうが向いているような気もしてきます。
まあ今回は作り手の側も理解されない危険を承知で思い切った表現を採用して冒険している部分はあるんじゃないかと思うんですが、できれば影響力のある大手サイトの方くらいには善し悪しの判断は別にしても意図や意気込みには気付いてあげて欲しいところです。